第14章 心筋梗塞のベクトル心電図

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1.心筋梗塞病巣と心電図所見との対応
 下図は心筋梗塞病巣とそれに対応した心電図所見を示す。心筋梗塞病巣は、中心部に心筋壊死巣 (necrosis) があり、その周囲に心筋傷害巣 (injury)、さらにその周囲に心筋虚血巣 (ischemia) がある。これらに対応して心電図は異常Q波、ST上昇、冠性T波を示す。異常Q波とは幅が広く、深いQ波であり、冠性T波とは左右対称的な深い陰性T波をさす。心筋壊死ベクトル(梗塞ベクトル)は、心筋壊死部を遠ざかり、心筋傷害ベクトルは傷害部に向かい、心筋虚血ベクトルは虚血部を遠ざかる。

心筋梗塞病巣と心電図との対応

2.梗塞ベクトル(infarction vector)
 心筋壊死部は起電力を失い、その部が正常時に持っていた起電力 (I) に相当した中和がなくなるため、反対側起電力がそれだけ強調される(I′)。心筋壊死により失われた心起電力ベクトルと大きさが等しく、方向が相反するベクトルを「梗塞ベクトル」という。下図は梗塞ベクトルを説明する模型図である。

梗塞ベクトルの説明図

3.心筋梗塞ベクトル心電図の特徴
  1) QRS環の変形
  心筋梗塞が起こると、QRS環の一部または全部が梗塞ベクトルによる圧迫を受けて心筋壊死部を遠ざかるように変形する。下図はいろんな部位の心筋梗塞の際における梗塞ベクトルの方向と、それによるQRS環の変形の関係を示す。一般に、QRS環起始部(初期ベクトル)が梗塞部位を遠ざかる方向に偏位するが、広汎な梗塞の場合にはQRS環全体が梗塞部を遠ざかる方向に偏位する。また、側壁、後壁などの遅く興奮する部位の梗塞の場合には、QRS環初期ベクトルは正常に描かれ、梗塞部に興奮が到達すると予想される時点においてQRS環の一部が梗塞部位を避けるような変形を示す。

 A:正常、
 B:前壁中隔梗塞、
 C:限局性前壁梗塞、
 D:下壁梗塞、
 E:高位後壁梗塞。
いろんな部位の心筋梗塞症における梗塞ベクトルの方向とQRS環の変形

  (1) 前壁中隔梗塞:前方からの梗塞ベクトルの圧迫により、水平面図QRS環起始部は左後方に向かう(右前方に向かう正常中隔ベクトルの消失)。
  (2) 限局性前壁梗塞:水平面図QRS環初期ベクトルは正常のように右前方に向かうが、左前方からの梗塞ベクトルによる圧迫のためにその後のQRS環は後方区画で時針式に回転する。
  (3) 下壁梗塞:下方からの梗塞ベクトルによる圧迫のため、前・側面図のQRS環起始部は上方に偏位し、初期上方時間(QRS環初期部分で、上方区画にある時間)は正常上界(0.025秒)を超える。
  (4) 高位後壁梗塞:後方からの梗塞ベクトルによる圧迫のため、水平面図QRS環後半が前半よりも前方に偏位し、そのため水平面図QRS環は時針式に回転する。 

 なお心筋梗塞の際には種々の心室内伝導障害を伴うため、梗塞に伴うQRS環の変形以外にもQRS環の陥凹、結節、屈曲、刻時点密集などの諸種の心室内興奮伝導障害を反映する所見を伴う場合が多い。

  2) open QRS環
 心筋梗塞、ことに急性期にはQRS環は原点に帰らずにST部に移行し、いわゆるopen QRS環を示す。QRS環終末部において描記速度が突然緩徐になる時点が心電図のJ点に相当し、ベクトル心電図原点とこの部を結んだベクトルをSTベクトル(またはJベクトル)とよぶ。STベクトルは心筋傷害部に向かう。

  3) 心筋虚血性T環
  T環は大きさを増し、心筋虚血部を遠ざかる。T環の遠心脚と求心脚の描記速度は等しい。時には異常に大きく、丸いT環を示す場合もある。

4.各部位の心筋梗塞のベクトル心電図
  1)前壁中隔梗塞 (anteroseptal infarction)
  特徴的所見は水平面図に認められる。右前方に向かう正常中隔ベクトルが消失し、水平面図および側面図でQRS環起始部は直ちに左後方に向かう。小範囲の梗塞ではQRS環の変形は単に初期ベクトルのみに限られるが、範囲が広い前壁中隔梗塞では、QRS環起始部のみならず遠心脚も左後方に偏位する。QRS環の回転方向は正常と同様で、T環は左後方に向かう。

 下図(A)は前壁中隔梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は左後方に向かい、右前方に向かう正常中隔ベクトルは消失している。しかし、それ以後のQRS環はほぼ正常のように描かれている。T環は右後方に向かい、前壁および前側壁にも心筋虚血がある。側面図T環は丸みを帯びる。一般に前壁中隔梗塞では前面図QRS環には異常がない。

前壁中隔梗塞のベクトル心電図(49歳、男性)

 下図(B)も前壁中隔梗塞のベクトル心電図である。水平面図では右前方に向かう正常中隔ベクトルは消失し、QRS環起始部は直ちに左後方に向かう。QRS環には前方成分はない。以後のQRS環は正常と同様に反時針式に描かれ、終末部は右後方にある。open QRS環を示し、STベクトルは右、やや前方に向かう。T環は右後方に偏位し、前壁および前側壁の虚血を示す。側面図T環は丸味を帯びる。

前壁中隔梗塞のベクトル心電図(63歳、男性)

 下図(C)は前壁中隔梗塞兼右脚ブロック例のベクトル心電図である。水平面図のQRS環起始部は直ちに左、やや後方に向かい、右前方に向かう正常中隔ベクトルは消失している(前壁中隔梗塞)。QRS環終末部は著しい刻時点の密集を示して右前方に向かう(右脚ブロック)。右脚ブロックと心筋梗塞との合併の際には、本例のように、QRS環起始部(初期ベクトル)に梗塞特有の所見があり、QRS環終末部(終期ベクトル)には右脚ブロックの所見があり、両者の合併の診断は容易である。

前壁中隔梗塞兼右脚ブロック例のベクトル心電図(54歳、男性)

  2) 限局性前壁梗塞 (localized anterior infarction)
  水平面図に最も特徴的所見を認める。右前方に向かう正常中隔ベクトルはよく保たれているが、それに直ぐ引き続くQRS環遠心脚は直ちに左後方に転じ、QRS環遠心脚および最大QRSベクトルは正常よりも左後方に偏位する。QRS環の回転方向は正常である。T環は後方に向かう。

 下図(D)は限局性前壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は最初は右、やや前方(?)に向かうが、直ちに方向を変えて左方に向かい、反時針式に回転して左後方の最大QRSベクトルに達する。QRS環遠心脚は正常に比べて全体的に後方に偏位しているが、求心脚はほぼ正常に描かれている。T環は右後方に向かう。本例ではQRS環起始部は明らかに右方に向かい、側面図で見るようにわずかに前方に進むが、前方要素は明らかに減少している。梗塞部は狭義前壁が主であるが、一部、前壁中隔にも及んでいる。

限局性前壁梗塞のベクトル心電図 (66歳、男性)

   3) 前側壁梗塞 (anterolateral infarction)
  水平面図QRS環の時針式回転を特徴とする。QRS環起始部は正常と同様に右前方に描かれるが、直ちに右後方に転じ、時針式に回って左後方に進み、左後方からST部に移行する。軽症例ではQRS環が8字型回転を示す場合がある。QRS環起始部および遠心脚は右方に偏位し、初期右方時間が延長する。T環は右方に向かう。

 下図(E)は、前側壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は明らかに右前方に向かい、正常中隔ベクトルは保たれているが、その後のQRS環は大きく時針式に回転して左後方に描かれている。これは左前方からの梗塞ベクトルの圧迫によると考えられ、前側壁梗塞に特徴的所見である。QRS環には全体的に刻時点の密集があり、心室内伝導障害の合併も考えられる。T環は右前方に向かう。前面図QRS環は時針式に回り、側面図QRS環の初期前方時間が延長し、下壁梗塞を合併している可能性がある。

E
前側壁梗塞のベクトル心電図(59歳、男性)

 下図(F)は前側壁兼下壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環初期ベクトルは僅かに右前方に出るが、直ちに後左方に向かい、大きく時針式に回って最大QRSベクトルに達し、左側方から原点に復帰している。このようなQRS環の変形は、左前側方からの梗塞ベクトルによる圧迫の影響と考えられる。前・側面図において、QRS環遠心脚は上方に偏位し、下方からの梗塞ベクトルによる圧迫が考えられ、下壁梗塞の合併が診断される。この所見は増幅率を上げた記録(G)で一層分かりやすい。T環は右前上方に向かう。


F
前側壁兼下壁梗塞のベクトル心電図 (61歳、男性)

 下図(G)は,上図(F)と同一例の増幅率を上げたベクトル心電図記録である。QRS環起始部の状態が把握しやすい。すなわち、QRS環起始部は、前面図および側面図において上右前方に向かっており、この部は刻時点が密集し,初期上方時間が延長していることを示している(下壁梗塞)。側面図でT環は前上方に向かい、小さい丸いP環も認められている。

前側壁梗塞兼下壁梗塞のベクトル心電図 (Fと同一例の高増幅率記録)

 下図(H)は前壁中隔梗塞、前側壁梗塞兼右脚ブロックのベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は直ちに右後方に向かい(前壁中隔+側壁梗塞)、時針式に回って左後方に向かった後(前側壁梗塞)、QRS環終末部は著しい刻時点の密集を示しつつ右前方に描かれている(右脚ブロック)。前面図最大QRSベクトルは垂直位を示すにもかかわらず、反時針式に回転し、QRS環起始部は右下方に向かい、高位側壁梗塞の合併も考えられる。open QRS loopも認められ、STベクトルは左前上方に向かう。T環は右後下方に向かう。
ベクトル心電図診断:広汎前壁梗塞兼右脚ブロック。

前壁中隔梗塞、前側壁梗塞兼右脚ブロックのベクトル心電図

  4) 高位側壁梗塞 (high lateral infarction)
  最も特徴的所見は前面図に認められる。QRS環起始部は梗塞ベクトルによる圧迫の影響を受けて右下方にでて反時針式に回転する。最大QRSベクトルは左下方にあり、左方成分は減少し、QRS環終末部は右上方に向かい、右方成分が増加する。狭い範囲の梗塞では、前面図QRS環は反時針式に回転せず、QRS環起始部のみ右下方凸の陥凹を示し、以後のQRS環は時針式に回転する。水平面図ではQRS環起始部の右方成分の増加、左方成分の減少、QRS環後半の著しい右方偏位を認める。

 下図(I )は高位側壁梗塞のベクトル心電図である。前面図QRS環起始部は右下方凸の陥凹を示し、後半は右上方に向かう。側面図でもQRS環起始部に下方凸の陥凹を認める。水平面図でQRS環左方成分が減少し、終末部は著しく右後上方に偏位し、高位側壁のみでなく前側壁の起電力も減少している。
 ベクトル心電図診断:陳旧性高位側壁兼側壁梗塞。

I
高位側壁梗塞のベクトル心電図(54歳、男性)

  5) 広汎前壁梗塞 (diffuse anterior infarction)
  水平面図に特徴的所見が認められる。QRS環は直ちに後方に向かい、全QRS環が後方区画に描かれる。左方成分の減少が著しく、QRS環主部は右後区画にあり、T環は右後方に向かう。

 下図(J)は広汎前壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は右前方に向かわず、直ちに著しく右後方に向かい、時針式に回転してQRS環全体として著しく後方に偏位し、左方成分が減少している。前方成分は全くない。前面図QRS環は複雑な変形を示す。T環は大きく、右下方に向かい、水平面図、側面図で幅が広い(wide T loop)。open QRS loop を認め、STベクトルは左前(上)方に向かう。

広汎前壁梗塞のベクトル心電図(60歳、男性)

 下図(K)も広汎前壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は右後方に向かい、時針式に回転して全QRS環が右後区画に描かれている。前面図でもQRS環起始部は右下方に向かい、時針式に回って著しく上方に挙上し、左方成分は減少している。open QRS loopを示し、STベクトルは前上方に向かう。T環は変形し、右後方に向かう。

広汎前壁梗塞のベクトル心電図(58歳、男性)

  6) 下壁梗塞 (inferiori infarction, diapharagmatic wall infarction)
  水平面図に著変がなく、前・側面図に特徴的所見を認める。QRS環起始部は左上方に向かい、時針式に回転する。通常、QRS環主部および最大QRSベクトルは左下方にあるが、広汎な梗塞では左上方に偏位することもある。最大QRSベクトルが著しい左軸偏位(+20度以下)を示すにもかかわらず、QRS環初期ベクトルが上方に向かい、かつ前面図QRS環が時針式に回転する場合は下壁梗塞を考える。
 側面図で、QRS環起始部は前上方に大きく突出する。QRS環の回転方向は時針式の場合と反時針式の場合とがある。 T環は前・側面図でQRS環外に逸脱し、大きく前上方に向かう。通常、QRS環と逆方向に回転し、QRS−Tベクトル夾角は拡大する。

 下図(L)は下壁梗塞のベクトル心電図である。前面図でQRS環初期ベクトルは左上方に向かい、初期上方時間は正常上界(0.025秒)を超えている。T環も左上方に向かい、側面図では時針式に回っている。水平面図はほぼ正常所見を示す。

下壁梗塞のベクトル心電図(65歳、男性)

 下図(M)も下壁梗塞のベクトル心電図である。前面図QRS環起始部は上方に向かい、初期上方時間は正常上界(0.025秒)を超えている。最大QRSベクトルが水平位をとるにもかかわらず、前面図QRS環が時針式回転を示す場合には下壁梗塞の可能性を考える必要がある。水平面図はほぼ正常である。

下壁梗塞のベクトル心電図

  7) 高位後壁梗塞 (strictly posterior infarction, high posterior infarction)
 高位後壁梗塞とは高位後壁に限局する梗塞で、純後壁梗塞とも呼ばれる。標準誘導心電図では診断困難な領域であるため、ベクトル心電図法がその診断に極めて有用である。水平面図に最も特徴的所見が見られ、QRS環は次の2型を示す。
  a. 水平面図QRS環の時針式回転:左室後基部は正常でも最も遅く興奮するため、QRS環求心脚(復帰部)は後方から前方に向かう梗塞ベクトルによる圧迫を受けて遠心脚よりも前方に偏位する。そのため水平面図QRS環は時針式に回転する。T環は著しく前方に大きく突出する。
 b.水平面図QRS環は正常と同様に反時針式に回転するが、その前半が著しく前方に偏位する。QRS環主部は前左方にあり、T環もまた著しく前方に大きく突出する。

 一般に、高位後壁梗塞は単独所見として認められる場合は少なく、多くの例では下壁梗塞、側壁梗塞などと合併している。

 下図(N)は下後壁梗塞のベクトル心電図である。前面図QRS環初期成分は上方に挙上し、下方からの梗塞ベクトルの圧迫があり、下壁梗塞と診断される。前・側面図でT環も上方に向かう(下壁虚血)。水平面図でQRS環前半は著しく前方に偏位し、T環もまた左前方に向かう。これは後方からの梗塞ベクトルの圧迫によるもので、純後壁梗塞の合併が診断される。

下後壁梗塞のベクトル心電図

 下図(O)は下側壁兼後壁梗塞のベクトル心電図である。水平面図QRS環起始部は左側方にでて時針式に回転し(高位後壁梗塞)、最大QRSベクトルは左前方にある。前面図でQRS環遠心脚は左側方に向かい、最大QRSベクトルが著明な水平位(横位)をとるにもかかわらず時針式に回転し、初期上方時間は正常上界(0.025秒)を超えている(下壁梗塞)。
 ベクトル心電図診断:下後壁梗塞。

O
下後壁梗塞のベクトル心電図

 下図(P)も下後壁梗塞のベクトル心電図である。前面図で、QRS環遠心脚は著しく上方に挙上し、最大QRSベクトルが水平位をとるにもかかわらず、QRS環は時針式に回転している(下壁梗塞)。水平面図のQRS環初期成分は、正常例と同様に右前方に向かい、左方に進んで最大QRSベクトルに達するが、その後は時針式に回転して右方に転じ、右後方から原点に復帰している。水平面図QRS環は時針式に回り、後方からの梗塞ベクトルによる圧迫の影響と考えられる。
 ベクトル心電図診断:下後壁梗塞。

下後壁梗塞のベクトル心電図

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