脇町の風物4のタイトル

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 脇町の代表的な神社としては、下に示すように八幡神社、脇人神社、秋葉神社がある。

脇町風物4の内容

 脇城(脇ノ城)は、三好長慶により天文2年(1533)に築かれたと伝えられている。三好長慶は天文3年ころ、管領細川晴元に仕えた。長慶は天文18年(1549)には家臣 松永久秀らと共に細川氏綱を奉じて畿内を制圧して京都に入った。

 天文21年(1552)、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立し、足利義輝(室町幕府第13代将軍)−細川氏綱−三好長慶体制を確立した。弘治2年(1556)、室町幕府支配体制の確立と共に、脇城の城主として甲斐の国から武田上野介信顕(ノブアキ)を迎えた。

甲斐の国と阿波国との間には次のような歴史的関連がある。

  甲斐源氏の系譜を次ぐ加賀美遠光の次子である加賀美長清は、甲斐国の小笠原村に拠ったため小笠原氏と呼ばれていたが、承久3年の承久の乱で鎌倉幕府側について功績を挙げたため、阿波国の守護職に任じられた。三好長慶の先祖である三好氏はこの小笠原氏の一族である。このような関係から、三好長慶は脇城主として、甲斐国から武田信玄の異母弟である武田上野介信顕を迎えたものと思われる。

〔註〕承久の乱(じょうきゅうのらん):
 鎌倉時代の承久3年(1221)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱である。それまでは、鎌倉幕府は京都の公家政権の軍事部門として位置付けられていたが、承久の乱を契機に朝廷権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになった。

 しかし、天正9年(1581)、土佐の長曽我部元親が阿波の国に侵攻し、脇城は天正10年8月22日落城し、城主武田信顕は讃岐に逃れたが、香川県白鳥で戦死し、その子 千勝丸信定は捕らわれて自決した(享年16歳)。この脇城落城の折、長曽我部勢により脇町の町家は残らず焼き払われた。

 信顕の碑は、承応4年(1655)4月22日に建立され、現在も讃岐国大内郡町田村東光寺にあるという。千勝丸信定(享年16歳)は天正13年8月22日(1585)に死亡し、その位牌は現在、美馬市の指定文化財(第34号脇町指定文化財)として、脇町本町武田登氏宅に保管されている。

 後に、阿波国の藩主となった蜂須賀家の家老 稲田氏が脇町を領したが、稲田氏は16歳で自決した信定を哀れみ、脇町丸の内に脇人大明神として祀つた。後に信顕も合祀した。これが脇町の氏神である脇人神社の由来である。

脇人神社正面鳥居 脇人神社御輿
脇人神社正面入り口 脇人神社御輿
脇人神社本殿 脇人神社御輿
脇人神社本殿 脇人神社御輿

 脇人神社の裏のすぐ近くに秋葉山があり、その頂上から峰伝いに10分くらい歩くと脇城跡がある。昭和20年頃、私が訪れたときには井戸の跡などがくっきりと残っていたが、この度 HPの写真撮影のために訪れた際には、草が生い茂り、荒れ果てて正に「強者どもの夢の跡」といった表現がぴったりする情景であった。下図は脇城の跡地を示す。

脇城址
脇城跡

 遠江(現在の静岡県)の秋葉神社は、「火伏せの神」として全国に広く分社を持っている。脇町も度々の火災に苦しめられたため、文化6年(1809)頃に火伏せの神として秋葉神社を建立した。脇町の秋葉山の山頂に建てられ、麓から長い石段が本殿まで達している。

 私たちが子供の頃は、秋葉山に山全体に桜が植えられ、春ともなると全山が桜の花で覆われ、近隣の桜の名所として、多くの花見客でにぎわった。私どもも、母に遊山弁当を作ってもらって近所の友達と共に遊山に出かけたことを、現在でも鮮明に記憶している。

秋葉神社本殿 秋葉神社石段
秋葉神社本殿 秋葉神社参道の階段

脇町上野地区にある八幡神社は、脇町全町の氏神として広く崇拝されていた。猪ノ尻の道路から長い石段で本殿に達することが出来る。秋祭りには、この本殿への石段の登り口に沿った県道に沢山の露天が立ち並び、それを見物するのが私たち脇町の子供たちの楽しみであった。また、この秋祭りの際には、近隣の親類の方が、泊まりがけで見物にきておられ、そのことも私どもの楽しみの1つであった。


八幡神社本殿 八幡神社正面石段登り口
八幡神社本殿(上野) 八幡神社参道の階段入り口

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