症例8の解答

 本例は労作狭心症例で、Master二重負荷試験により典型的な狭心症状が誘発された。心電図では、運動負荷後に極めて高度の冠不全所見(ST低下)が誘発されている。

狭心症例の運動負荷前、負荷後の標準誘導心電図の経過 狭心症例の運動負荷前、負荷後のベクトル心電図の経時変化
           運動負荷後の神殿図経過
   A:負荷前、B:負荷直後、C:1分後、D:5分後、E:8分後
運動負荷後のベクトル心電図経過
A:前、B:直後、C:1分後、
D:5分後、E:8分後

 本例の運動負荷心電図において注意するべき所見は2つある。第1は著しい冠不全所見(ST低下)の出現で、広範な誘導に及び、左冠動脈主幹部病変を推察させる。第2は運動負荷直後に著しいQRS軸の左軸偏位が認められた点である。左図において、運動直後(B)には著しいST低下と共に高度の左軸偏位が出現している。しかし、この所見は5分後には負荷前の状態に復している。この一過性左軸偏位は、冠不全により誘発された心室内伝導障害で、一過性左脚前枝ブロック(transient left anterior fascicular blcok)であると考えられる。

 下表は、左軸偏位を来す諸病態を列挙して示す。

病態 基礎疾患
左脚前枝ブロック 心筋梗塞、その他の虚血心、高血圧、特発性心筋症、
二次性心筋症、心内膜床欠損、三尖弁閉鎖、開心術後
(ファロー四徴、三尖弁置換)など。
左室肥大 高血圧、大動脈弁膜症、大動脈縮窄、三尖弁閉鎖、
大動脈炎症候群など。
横位心 肥満、妊娠、腹水、腹部腫瘍など。
下壁梗塞 U、V誘導のQ波が深くなることによる。
左脚ブロック、両脚ブロック 両脚ブロック(完全右脚ブロック+左脚前枝ブロック)
WPW症候群(B型) /
肺気腫 /

 これらの中で一過性左軸偏位を来す病態としては、左脚前枝ブロックとWPW症候群があるが、後者の特徴的心電図所見は認められないため、一過性左脚前枝ブロックが考えられる。

 ベクトル心電図では、A(負荷前)は正常であるが、B(負荷直後)では前面図QRS環が上方に挙上し、反時針式に回転して典型的な左脚前枝ブロックの所見を示す。C(1分後)ではQRS環は主として下方区画に描かれているが、なお前面図QRS環は反時針式に回転し、QRS環終末部は上方に挙上して著しい左軸偏位の名残りを残している。D(5分後)、E(8分後)では、前面図QRS環は全体的に下方区画に描かれ、運動負荷前の状態にほぼ復している。

 下図は左脚前枝ブロックの特徴的心電図所見の成因を示す模型図である。

左脚前枝ブロック心電図の成因

 Rosenbaumらによると、左室伝導系は左脚前枝および左脚後枝の2枝からなり、前枝および後枝は末梢Purkinje系で密なnetworkを形成している。そのため前枝ブロックがおこると、前(上)枝の支配領域心筋は後(下)枝からのインパルスUより興奮する。この興奮による心起電力ベクトルは左上方に向かうためQRS軸は著しい左軸偏位を示すようになる。従って、左脚前枝ブロックの診断は高度の左軸偏位所見により行われるが、どの程度以上の左軸偏位を左脚前枝ブロックと診断するかが問題となる。Rosenbaumは、最初、−60度以上の左軸偏位を左脚前枝ブロックと診断する基準を提唱したが、後に−45度以上の左軸偏位を左脚前枝ブロックの診断基準として採用している。

 しかし、本例のベクトル心電図所見から、QRS最大ベクトルの方向に変化がなくとも、前面図QRS環の回転方向の異常(反時針式回転)のみを示す不完全左脚前枝ブロックがあることが示された。左脚前枝ブロックは、左室心筋の器質的異常の存在を示すため臨床的意義が大きいが、Rosenbaum基準を満たさない極めて軽度の軸偏位のみを示す不完全左脚前枝ブロックがあることを念頭に置くことが必要である

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