第1120例 女性における運動負荷試験偽陽性例

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第1120例
症例:44歳、女性
臨床的事項:本例は人間ドック例です。循環器学的愁訴はありません。手元にある本例の臨床的記載は不十分ですが、判明している事項は下記の如くです。
理学的所見:正常、貧血(-),耐糖能異常なし。尿:正常、腎機能:正常、胸部X線写真:正常。
健診施設担当医は,この心電図に対して安静時心電図は正常、運動負荷心電図:偽陽性(軽度ST低下)と診断している。
 下図は本例の安静時心電図及び運動負荷(Master二重負荷試験)直後、負荷2分後および負荷6分後の心電図を示します。 皆様方の診断は?

安静時心電図

運動負荷直後

運動負荷2分後

運動負荷6分後

解説
 本例は健診を受診した44歳、女性例です。理学的所見、一般血液化学検査、尿検査、胸部X線写真に異常所見を認めません。安静時心電図では、下図に示すように異常所見はありません。

 下図のMater二重運動負荷試験直後の心電図では、心拍数は86/分に増加し、第1-3,aVF,V3-6誘導でST低下があり、第2,3,aVF,V5,6でのST低下波形は扁平~下降型ST低下で、冠不全所見を示し、運動負荷試験陽性が強く疑われます。

 また下図は運動負荷試験の6分後の心電図です。負荷直後の心電図に比べて、ST低下の程度は軽くなっていますが、なおV3-6 に軽度のST低下を認めます。

  下図は女性における運動負荷試験におけるST低下所見の特異度を示します。

 下図は感度および特異度という言葉の意義、それらの求め方を示します。特異度とは ある検査法の信頼性を反映する指標です。すなわち, 非罹患者中の検査陰性者の頻度を表わします。特異度が高ければ偽陽性者が少なく、その検査の信頼性が高いことを意味します。たとえば,左室肥大の心電図診断基準であるCornell votageの私どもの補正値を用いますと,特異度は95%レベルであると推定され、信頼度が高いと考えられますます。添付file-4に示すように、女性での運動負荷試験の特異度は一般的に低いとする研究結果が多く報告されています(63-73%)。

  女性で,運動負荷試験の特異度が低い(すなわち信頼性が低い)機序として、最も広く取り上げられているのは女性ホルモンの影響によるとする考え方です。添付file-6に示すように、女性ホルモンの化学構造は強心配糖体であるジゴシンによく似ています。ジギタリスなどの強心配糖体を投与すると,いわゆるジギタリス効果としてST低下所見が必発することは広く知られています。

 閉経前女性で、運動負荷心電図に偽陽性が多い機序に女性ホルモンの関寄を支持する根拠としては,下記のような研究結果が報告されています。
 1) Jaffe I ら(1971):estrogenを投与するとSTが低下し, androgenを投与するとその作用が減少する。
 2) Dalal, Morise(1992):閉経後女性においても、estrogenを内服している例では, 運動後の異常ST反応の頻度が多い。
 3) Vaitkeviciusら(1989):閉経後女性での過呼吸誘発ST低下にestrogenが関寄している。
 4) Marmorら(1993):運動により偽陽性ST低下を示す女性で、卵巣摘出によりこの反応が無くなる。これらの女性にestrogenを投与すると、この反応が再出現する。

 また、女性における運動負荷時ST低下に女性ホルモン以外の要素の関与を支持する意見としては下記のような研究結果が報告されています
 1) Ksssumiら(1976):負荷後ST低下を示す女性では、血管抵抗増加、酸素消費増加(ことに心内膜下筋層における)を認める。また運動負荷によりST低下を示す女性では、肺動脈平均圧上昇例が多い。
 2) Ellestadら(1977):女性では左室コンプライアンス低下を伴う心筋機能の不顕性低下例が多い。
 3 )Higgenbothanら(1984):RIアンジオグラフィーによる研究で、運動による駆出率増加が著明でなく、拡張期容積が増大する。
  4) このような女性例では、冠動脈の拡張期予備能が低下している例がある。

 いずれにしても、経験的に女性では運動負荷心電図検査で偽陽性例が多いのですが、その診断、鑑別診断における注意点としては以下の諸点があげられます。

 (1) 負荷中は運動耐容能耐が良好で、心拍数が多い。
 (2) 体位変換、立位、過換気(30秒)などでST-T変化を生じ易い。
 (3) 運動中は高度のST低下(>2mm)を示すが、狭心痛がなく、中止後1分以内に正常化する。
 (4) 負荷後、初期の回復は早いが、2分以降は1mm程度の長く持続する水平型または下降型ST低下を示す。(体位が関係し、立位ではST低下が持続するが、臥位をとるとST変化は速やかに正常化する。)
 (5)  回復期に初めてST低下が出現する例がある。
 (6) aVR以外の誘導ではST上昇を示さない。
 (7) Ⅱ,Ⅲ、aVF誘導のみにST-T変化が限局する場合が多い。
 (8) HR-STスロープ(ループ)が反時針式回転を示す。

  HR-STスロープ(ループ)とは、下図に示すように、縦軸にST低下度、横軸に心拍数をとり、運動終了直後から回復期にかけての各時点におけるST低下度(mm)を縦軸、対応した時点での心拍数(/分)を横軸にとり、その経時変化のグラフを描くと、正常例では反時計回りの回転を示すが、虚血性心疾患例では時計回りの回転方向を示します。

 冠動脈疾患を伴わない女性例に見る運動負荷後心電図におけるST低下例では、正常例に見るように、このループの回転方向が反時計回りの回転方向を示します。この方法は、運動負荷後の心電図に見るST低下が虚血性心疾患の反映であるか否かを評価するのに極めて有用であると思われますが、その作図が煩雑であるという大きい欠点があります。

 極めて常識的なことですが、本例には狭心症などの虚血性心疾患を疑わせる症状や検査結果もなく、更に脂質異常、糖尿病、高尿酸血症、高血圧、慢性腎疾患などの虚血性心疾患の危険因子が全く認められません。このような例では、心電図にST低下所見を認めたからと言って、心電図所見のみから短絡的に器質的心疾患があるかのような冠不全という診断を下すことは適当でありません。

  心電図は、心臓起電力の記録であり、形態的な器質的心疾患の直接的表現ではありませんから、心電図診断の際には、常に臨床的事項(病歴、家族歴、診察所見、胸部X線検査、CT検査、心エコー図検査など)と共に総合的に判断する「臨床-心電図的診断(clinico-electrocardiographic diagnosis)」の立場を忘れてはならないと思います。

 従って本例の心電図診断は下記の如くなります。
 1020-specificity心電図診断:正常心電図(壮年女性の運動負荷後心電図に見る見掛けのST低下)

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