第1110例 Wellens 症候群類似の右側胸部誘導のST上昇を示すアスリート心

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症例:29歳、男性
 本例は定期健診例で、循環器学的愁訴はない。。身長172cm, 体重68kg、BMI=23。血圧1o00/65mmHg, 中性脂肪56mg/dl, HDLコレステロール69mg/dl, LDLコレステロール120mg/dl, 空腹時血糖 86mg/dl, HbA1c 5.0%。
 下図は本例の検診時に記録した心電図で、健診施設担当医はこの心電図に対して「左室肥大」としている。この診断は妥当であるか?皆様方の診断は?
 

解説
 下図に本例の心電図の解説図を示します。心拍数は60/分の正常洞リズム(洞徐脈の傾向)で、QRS軸は正常軸です。この心電図を見て、最初に気がつくことは V5,6でR波の振幅が著明に大きいことと、V2誘導のST部が斜めに上昇して陰性T波に移行している所見です。問題はこれらの所見が正常所見であるか、あるいは異常所見であるかという点です。

 まずV5,6のR波の高電圧について考察します。本例のV4のR波の振幅は37mm、V5では38mmあり、確かに高い振幅を示しています。この所見に基づいて担当医は左室肥大と診断したものと思われます。しかし、左室肥大と診断するためには、左室肥大を起こす基礎疾患の存在が必要です。

 現在でもなお世界的にも広く用いられている左室肥大の心電図診断のためのSokolow-Lyon基準によると、RV5≧26mmと言う項目がその中の1項目として取り上げられています。しかし、左室肥大と診断するためには、左室肥大を起こす基礎疾患の存在が前提条件です。しかるに本例は、理学的所見は正常で血圧は100/65mmHg とむしろ低血圧傾向を示しています。また年齢も若く、冠危険因子が全くなく、虚血性心疾患の存在は考えられません。

 そもそもQRS波の高電圧は、決して心室筋肥大を表す直接的指標ではないのです。QRS波の振幅を規定するのは、興奮部がマイナス、未興奮部がプラスを示し、心室筋層の内膜面から外膜面へと進行する際に生じる電気的二重層の興奮前面に対して誘導部位から張る立体角(solid angle)により規定されます。従って、心電図の振幅を規定するのは以下の2つの要素です。
 1)興奮前面(activation front)の広さ(心室肥大の際にはこれが広くなる)
 2)心臓と胸壁表面との間の距離

  この2要素の中では、ことに2)の影響が強いと考えられます。欧米人と日本人とで、心室肥大の電圧基準値として同一のものを用いてはならない理由はこのためです。Sokolow-Lyon基準の中で最も広く用いられているRV5(6)+SV1≧35mmという診断基準項目を、30歳以下の日本人正常男性に適用しますと、正常者3名の内、1名が左室肥大と誤って診断されます。そのため、私たちは30歳以下の日本人男性の際の左室肥大心電図診断基準としては、下記基準値を用いることを提案しています。
          RV5(6)+SV≧50mm    (30歳以上の男性およびすべての年齢層の女性では≧40mm)

  このような立場に立つと、本例の胸部誘導のQRS波の振幅は正常範囲内にあり、左室肥大とは診断できません。
 
 次にV2のST-T部の波形の評価です。本例のV2のST-T波形はいわゆるWellens症候群の際のST-T波形に酷似しています。Wellens症候群とは切迫心筋梗塞の危険を示す重要な心電図所見です。その詳細についてはこのMLの第834例に詳しく解説していますので、それを参照してください。 下図にWellens症候群の心電図を示します(Zwaan C et al:Am Heart J1982:103:730-736)。この例は45歳、男性、不安定狭心症例で、入院4週前から狭心症自覚し、精査/治療を求めて入院しました。入院後、β遮断薬、硝酸薬などの薬剤治療により狭心症は起こらなくなりました。この心電図はその時点で記録したものです。V2,3でST部は上昇したJ点から起始し、上方凹の波形を示して斜めに上昇し、その後、急峻に下降して陰性T波に移行しています。このようなV2,3の心電図所見を示す状態をWellens 症候群と呼びます。

 本例は、その後、一見、順調に経過しているように見えましたが、入院9日後に胸痛が再出現し、今回はニトログリセリンは無効でした。下図はこの時点の心電図を示します。V1-3で初期r波の高度の減高~消失を認め(急性前壁中隔梗塞)、ST部は著明に上昇し(心外膜下筋層傷害)、T波が高く(心内膜下筋層虚血)、V5,6でST部の相反性低下(reciprodal ST depression)を認め、急性前壁中隔梗塞が発症した所見を示しています。

 このような所見(Wellens症候群の心電図所見)を示す例では、速やかに冠血行建を行わないと、数週間以内に75%が急性心筋梗塞に移行します(薬剤療法のみではだめ)。本例のV2誘導のST-T波形は一見したところこのWellens症候群に類似したST-T波形を示しています。しかし、本例は若年男性であり、冠危険因子が全くなく、Wellens 症候群である可能性はまずないと考えて良いと思います。

 他方、長期間ハードな運動を行ってきた人などに認められるいわゆるアスリート心(スポーツマン心臓)では、V1,2などの右側胸部誘導が下図に示すような2型のいずれかの波形を示すことが知られています。1つは左図(A)に示すように、ST部が上方凹の波形を示して著明に上昇し、高い陽性T波に移行する所見で、白人にはこの型を示す人が多いといわれています。もう1つの型はB(右図)に示すように、ST部が上方凸の波形を示して斜めに上昇し、その後、ST部は下降して陰性T波に移行する波形です。この波形は我が国のアスリートでは多く認められます。

 本例の胸部誘導V2の波形は正にこの波形です。アスリート心の際に多く見る心電図所見を添付ファイル5に示します。この表のグループ1に属する所見は運動競技参加、運動継続に何ら差し支えがない所見です。他方、グループ2に属する所見を示す場合は、その症例ごとに必要に応じて下記の諸検査を選んで追加検査し、競技参加、運動継続の可否を判断する必要があります(心エコー図、運動負荷試験、ホルター心電図、MRI検査、新血管造影、心筋生検、心臓電気生理学的検査)。

 本例は虚血性心疾患の危険因子が全くないため、Wellens症候群の可能異性は全く考えられません。アスリート心については、QRS波の高電圧、V2のWellens症候群類似波形などから、十分考慮する必要があります。本例の既往歴に運動状況についての記載がありませんでしたが、このような心電図所見を見た際には、必ず調査するべき事項です。

 以上から、本例の心電図診断は、正常心電図(アスリート心疑い)となります。なお参考までに、下表にアスリートにみる2種類の心電図所見を列挙します。Group 1に属する所見は、運動競技参加の可否を決める運動前心電図で、このようなしょけんをみとめたとしても、運動協議参加を許可して全く差し支えない所見です。他方、Group 2の所見を示した場合は、これらの所見は単純に運動のみでは示しにくい所見ですから、何らかの異常が背景にある可能性を考え、精査することが必要です。
 

 以上の考察から、本例の心電図診断は アスリート心(疑)となります。

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