第1107例 不完全三枝ブロック、saddle-back型Brugada心電図、心筋障害、左房負荷を示した例

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症例:39歳、男性
病歴:健康診断で心電図異常を指摘されたが、自覚症状がないため放置していた。その後の健診時にも同様の指摘を受けたため精査を希望して来院した。現在、特に自覚的愁訴はない。
 生活歴:煙草50本、酒2合
家族歴:特記するべき異常なし。
理学的所見:正常、心不全所見もない。血圧134/82mmHg.
 検査成績:尿:蛋白±、糖+、貧血無し。肝・腎機能正常。血液化学:総コレステロール224mg/dl, 中性脂肪172mg/dl, 尿酸6.3mg/dl, 電解質:正常、
空腹時血糖 91mg/dl。
 胸部X線写真:心胸郭比 47%、心形態、肺野に異常所見なし。
心音図、心エコー図、心機図:異常なし。
下図は本例の心電図である。この心電図の診断は?また基礎疾患としてどのような疾患を考えるべきか?
 

第1107例解説:
 下図の解説図を示すように、本例は多様な心電図所見を示しています。以下それらを順次説明します。
 
 
 1.洞徐脈:PP間隔は1.04秒ですから、洞頻度(心拍数)58/分の洞徐脈があります。
 2.著明なQRS軸の左軸偏位(左脚前枝ブロック)
   QRS軸は著明な左軸偏位を示しています。一般にQRS軸が-45度以上の左軸偏位を示す際には「左脚前枝ブロック(左脚前枝ヘミブロック)(left anterior fascicular block, left anterior hemiblock) と診断します。QRS軸の角度を定めるには、正確には作図法により求めますが、多忙な臨床ではその様な煩雑な操作は避け、第2誘導でR波の振幅に比べて、S波の振幅が著しく大きい場合(R>2xS)には前額面QRS軸は-45度以上の左軸偏位を示していると考え、左脚前枝ブロック(left anterior fascicular block, LAFB) または左脚前枝ヘミブロック(left anterior hemiblock, LAH) と診断します。従って、本例の心電図はLAFBがあると診断します。
 
 ヘミブロックという考えは Rosenbaumが提唱した概念です。左室伝導系は左脚前枝および後枝の2本からなり、その1本が傷害されると、左室伝導系の半分が傷害されたこととなるので半分(hemi)という意味でヘミブロックと呼んでいます。hemiblockの際には 心電図は特徴的波形を示し、前枝ブロックの際には-45度以上の著明な左軸偏位、後枝ブロックの際には+120度前後の著明な右軸偏位を示します。左脚分枝ブロックの詳細については、私のHPを御覧下さい。(http://www.udatsu.vs1.jp)
 
3.V4-6の深いS波
  この所見は通常、心臓長軸周りの時針式回転(clockwise rotation around the longitudinal axis of the heart) と診断されますが、この場合はそうではありません。左脚前枝ブロックがありますと、左室興奮は先ず後枝支配領域(左室後壁の右下方)から始まります。そして、後枝と前枝とは末梢Purkinje系で密なnetworkを形成しているため、このバイパスを通って、後枝の興奮が前枝支配領域心筋、すなわち左室前壁の上左方に広がっていきます。これが左脚前枝ブロックの際にQRS軸が著明な左軸偏位を示す理由です。V5,6は、この遅れて起こった左室前枝領域の心筋興奮(左室前壁の左上方)を見送る位置にあるために深いS波を描くようになります。すなわち、本例に見るV4-6の深いS波は、左脚前枝ブロックに伴う随伴所見に過ぎません。
 
 4.QRS間隔の軽度の延長(0.12秒)とV1のQRS波のqR型
 本例ではQRS間隔が軽度に延長しており(約0.12秒)、心室内伝導障害(脚ブロック)の存在を伺わせます。V5,6のQRS波形から考えて左脚ブロックは否定的です。それではV1のQRS波の波形はどうでしょうか? 右脚ブロックの際にはV1のQRS波はrsR''型を示します。しかるに、本例ではqR型です。
 
 このq波は何を意味するのでしょうか? 左脚前枝ブロックの際に前胸部誘導(V2,3)に小さいq波を生じることはよく知られており、左脚前枝ブロックを特徴付ける所見であると考えられています。しかし、通常、左脚前枝ブロックの際にV1にq波を生じることはありません。
 
 本例のベクトル心電図を下図に示します。水平面図に注意して頂きたいと思います。もし、本例のV1のq波が前壁中隔梗塞によるものであれば、QRS環初期部分は直ちに後方に向かいます(QRS初期ベクトルは心筋壊死部を遠ざかる)。しかるに本例ではQRS環初期部分は左方にのび、やや前方に向かっており、この所見から本例のV1のq波は前壁中隔梗塞の合併による所見でないことが分かります。


 
  一般的にV1の誘導軸の方向は、正確には+90度ではなく、やや右方に寄っており、+120度前後に向かいます。従って、本例のQRS環初期ベクトルはV1の誘導軸と直行する方向に向かっており、心起電力のこの部分はV1誘導ではisoelectricに描かれていると考えられます。このような考えから、本例のV1のQRS波形はrsR'型波形の初期r波がisoelectricになったために、本来rsR'型を示すべき所をqR型として描いたと考えられ、右脚ブロック所見の変形であると見なすことが出来ます。またV1のqR型が右室肥大によるものでないことは、V1のP波が右房負荷所見を示さず、むしろ二相性で、陰性相の幅が広く、左房負荷所見を示していることからも裏付けられます。
 下図に正常例のべクトル心電図を示します。正常例のベクトル心電図水平面図QRS環は例外なく反時針式に回転し、最大QRSベクトルは左方に向かいます。QRS環の起始部および終末部には若干の刻時点の密集はありますが、心室内伝導障害がない場合は、この刻時点密集(心室内伝導障害のベクトル心電図的表現)は著明なものではありません。
 
 
 

 下図は完全右脚ブロック例のベクトル心電図です。典型的な完全右脚ブロックのベクトル心電図は、添付ファイルに示すように、QRS環の主要部分は正常と同様に描かれます(main QRS loop)が、水平面図QRS環終末部は著しい刻時点の密集を示し(心室内伝導障害)、この部はあたかも主QRS環 の終末部に付けたしたように刻時点密集を認めるため、終末付加部( terminal appendage) と呼ばれます。この終末付加部は典型的には 右前方に向かい、遅れて生じた右室興奮を反映しています。このように心室内興奮伝導障害はベクトル心電図QRS環の刻時点密集所見として表現されます。


 
  このような予備知識を持って、本例のベクトル心電図QRS環を見ますと、QRS環 終末部に極めて顕著な刻時点の密集があり、心室内伝導障害、すなわち脚ブロックの存在を示しており、本例には(完全)右脚ブロックがあると考えられます。QRS間隔が0.12秒ですから、定義上は「完全右脚ブロック」と診断するべきであるとは思いますが、V5,6のS波にスラーは顕著でなく、典型的ではありません。

 以上の考察から、本例は右脚ブロック+左脚前枝ブロックがあると診断されます。本例においては、以上に加えてPR間隔が0.24秒と延長しています。このPR間隔の延長は房室結節、ヒス束における興奮伝導障害によると考えるよりも, Lenegre, Rosenbaumら の研究によると、心室内伝導障害の結果であることが多いと考えられています。つまり、本例では、右脚および左脚前枝がすでに障害されており、それに左脚後枝の伝導障害が加わると、PR間隔が延長すると考えられます。このような状態を不完全三枝ブロック(incomplete trifascicular block)と呼びます。三枝(右脚、左脚前枝、左脚後枝)が共に完全 ブロック状態になりますと、完全房室ブロックとなります。この際、下位中枢の自動能(特発性心室自動など)が起こらないと、心停止を起こし突然死(心臓性急死)を起こします。本例では左脚前枝(および右脚)には完全ブロックがあり、左脚後枝には不完全ブロックがあると考えます。
 
 一般に両脚ブロックは、高齢者に見る場合がほとんどで、高血圧性心臓病、虚血性心疾患、心筋症などの重篤な基礎疾患を有する例が大部分です。本例は39歳と年齢も比較的若く、理学的所見、胸部X線写真、心エコー図、心機図、心音図などにも全く異常所見を認めて
いません。 このような諸点を考慮すると、本例の心電図異常の成因 としては, Lenegreらが指摘しているような心臓刺激伝導系の選択的な線維化を起こすいわゆるレネグレ病(Lenegre disease)が最も考えやすいと思います。Lenegre病についての詳細は私のホームページの遺伝性不整脈の項を御覧下さい。
  http://www.udatsu.vs1.jp
 
 その他に本例の心電図で注意するべきは、V2の心室群波形です。下図に示すようにV2誘導で、QRS波の後にJ波と思われる波があり、著明なST上昇を認め, saddle-back型ST上昇を示して陽性T波に移行しており、Brugada型心電図(saddle-back型)と診断されます。下図に1981年から1989年の9年間に渉る本例の心電図のV1-3誘導波形を示します。何れの心電図でもV1-V3誘導のST上昇は恒常的に認められていますが、V2誘導のJ波の振幅は著明に変動しています。このようにJ波の所見が変動するのもBrugada型心電図の特徴の1つとして重要です。
 

 以上から、本例はLenere病(疑)とBrugada型心電図を合併していると考えられます。両者の間に関連があるのでしょうか?最近の研究によりますと、Brugada型心電図の成因は心筋細胞膜のNaチャネルをcodeする遺伝子であるSCN5Aのαサブユニットの変異などのイオンチャネルの先天性異常であることが明らかになってきました。また、Lenegre病もこの同じ遺伝子異常に より起こることが家系調査、遺伝子解析などから明らかにされています。そして、この2つの疾患が同一例に認められたり、同一家系の別の家族に認められることが少なからずあることも明らかになってきています。
 
 本例では、特殊心筋の連続切片標本による検討は行われていませんので、Lenegre病の診断は現時点では推察に止まります。また、遺伝子解析も行われていませんので、本例に見られた不完全三枝ブロックとBrugada型心電図が、SCN5A変異によるものかどうかも単なる推察に止まります。しかしながら、1枚の心電図から、このように色々推論してみることは興味深いことであると思います
 
 本例の心電図診断:  1. 不完全三枝ブロック(疑):右脚ブロック、左脚前枝ブロック、不完全左脚後枝 ブロック(PR間隔延長)
   2. 左房負荷
   3. Brugada型心電図(saddle-back型)
   4. 心筋障害(第1誘導の平低T波)
 
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